どうして結果よりプロセスが大切なのか
(書き起こし)
木舎ラジオやまぴーです。
2022年12月木舎プレオープンの状況
木舎森のようちえんと木舎自由ながっこうっていうのを今準備していまして、2ヶ月目に入って12月、2022年の12月は2週間連続で子どもたちと一緒に過ごすっていうのを開催しています。
第1週目は気温が5度から12〜13度まで上がるような心地のいいところって言うんですかね、ほとんど天気良かったですね。
そういう気温の中過ごさせていただいて気持ちよかったです。
今週の月曜日12月の3週目になるんですけども、気温がマイナス2〜3度から上がって10度ぐらいの気温になって急激に下がった感じですね。
そんな中雪が舞う中焚き火を焚きながら過ごすみたいなことをしてました。
このぐらいになると年少さんとか服の選択間違っちゃうと凍えて動かなくなったりとかして可哀そうでしたね。
ちょっとうちの息子がそんな感じになっちゃって、出かける時にまいっか、ていう感じで出ちゃったら震えてガタガタ震えちゃって涙流して、かわいそうだったなって思いましたね。
やっぱり森のようちえんの子どもたちっていうのは自然で過ごすっていうのを毎日毎日続けてるとやっぱり自分の限界が来るかっていうのはわかってるので、服の選択とかも親はやっぱ気にしてるし、徐々に徐々に慣れていくっていうところがあるんですけども、森のようちえん経験してない子どもが急に12月のこの5度ぐらい下がったところ、しかもマイナスっていうところまで来るとスノーウェアとかね、やっぱりそういったものが必要だなって改めて思いました。
そん時は車の中に避難してお弁当食べたり紙芝居とかやったりしてるうちに、僕はまた外に出てドラム缶のところで火を焚いて料理とかちょっとしてたかな。
スープ作ってみようとやってましたね。
で、もう1人の保護者の方にその車の中で子どもたちを見てもらって、そうこうしてるうちに子どもたちもまた出てきて、かけ回ったりとかして遊びが始まって体があったまったんでしょうね、ケラケラと笑って過ごしてましたね。
そん時に心配だったのは親と離れて過ごすのがなかった男の子ですね。
「森のようちえん」「フリースクール」でこころが傷つくという事実
木舎の活動、それ以前の自主保育の活動の時も来てくれて、1ヶ月のうちの2回ぐらいは会えてきてたんですけども、いつもお父さんかお母さんと一緒に過ごしてて、最初はその親と遊ぶっていうのがあって、2時間3時間経ってからようやく他の子どもたちと遊ぶっていうのができていくような、安心するのはなかなか時間がかかってしまうというのがあって、その子元々そういうことではなかったんです。
この春にいったフリースクールの中で他の子どもたちと交わることができなくて、親と遊ぶっていうふうなことがずっと続いていて、親もスタッフからスタッフも忙しかったっていうのもあると思うんですけど、声かけられることもなく、その子が親と過ごしてるんだから寂しくないだろうっていうので、ほっとかれちゃったというのがあって、結局他の友達と交わることもなく、親もスタッフと交わることなく孤立しちゃったんですね。
行ってる意味がなくなっちゃった、っていうのが本当に起きちゃって、もう行きたくないという子どもの意見、親の方も随分疲れちゃったっていうのが起きちゃって(不登園になりました)。
まあ、(一番の問題は)コミュニケーションですね。
やっぱりこう寂しくしてる、困ってるんじゃないかっていう時に誰も声を掛けてくれないっていうことが起きた時に親であれ、子どもであれ、みんなね気づいちゃうんですね。
そこはやっぱり人以外もそうなんだと思うんですけども、どこかね他人事として割り切れるものではなくて、他人のことであれ、自分のこととして感じられるっていうのがコミュニケーションかなあと思うんですよね。
そういう意味ではコミュニケーションが取れてなかったっていう中で孤立しちゃったていう親子がいて、そこに傷ついちゃった。
そういった親子が、昨日は親の方が用事があったので子どもだけ参加できるかなって言って朝来て、車に乗って別の焚き火できる場所まで移動して行ったんです。
子どもの数はそんなに多くなくて3人なんです。
その子は年長さん、それから下の年少さんの男の子と年少さんの女の子。
いや本当に驚いたんですけど、やっぱ関係性ってこう少しずつ築き上げられるものだなって思うんです。
子どもたちがもう最初からニコニコと喋ったりとか、遊んでたりとかして、親がついてなくても元気だったなっていうのがありました。
先ほどのね、寒くて凍えちゃったうちの息子がいて、車の中でとかやってましたけど、そん時もずっと仲良くやってたんですね。
で、今日は1日このまま何も問題なく過ごせそうだなっていう最後の最後でした。
もう親御さんが迎えに来て、今日は離れてやっていけるかっていうのを心配していた男の子、そのお母さんも用事を済まして昼3時ですかね、迎えに来てくれたっていうところで話をしていると、やまぴーちょっと、っていうので、何があったんだかな?って呼ばれて行ったら、その男の子がうちの息子にやられてたんですね。
トラブルが起きている時の対応
うちの息子はその子に向かって『大っ嫌い』とか言って、年少さんですね。で、年少さんの女の子も『大嫌い』とかって言って真似して2人とも拒絶してたんですね。
わあ、何があったのかなと思ったんですけど、もう何があったかはちょっとよくわかんないけども、春から傷ついてフリースクールにも行けなくなった男の子の方はもう本当悲しそうな目をしてましたね。
で、彼に大丈夫っていう声かけをしたのと、うちの息子は『大っ嫌い』とか言って車の中入って行くっていう、女の子も『大っ嫌い』って言ってたりする。
何が起きたのかわからないけども、嫌いだって言ってるんですね。
で、これは僕の思ってることでもあり、カウンセリングで言ってることでもあるんですけども、その気持ちっていうのは裁けないっていうのがあるんですね。
嫌いっていう気持ちを裁くことはできない、何があったかはわからないけども、その嫌いって思っちゃったっていうのは何かもうそれは嫌いって思ったものを、いや、好きと言いなさいとかっていうことは言えないんですね。
それはダメとか嫌いって思ったらダメっては言えない。
ただ、嫌いって思うことはいいんだけども嫌いって言って本人に伝えるっていう時にその本人が傷つくってことが起きる。
そこは変えられるんじゃないかと。そこの違いっていうのを周りが聞いていて、スタッフは伝えることができるんじゃないかと僕は思ってるんですね。
なので嫌いって言われた時にちょっとそれやめてほしいなって思うんですよね。
今目の前で傷ついてる彼がいて、嫌いって言ってる。
まずはなんか嫌いっていうことがあったんだねっていうことと、あとは嫌いって言われて傷ついたよねっていうこと。
気持ちを全て見た時の瞬間にどこも取りこぼさないような気持ちを見ていけるかってのは、僕のそん時の瞬間の判断になりました。
だから、傷ついてる男の子に対しては嫌いって言われたら、それちょっと嫌だよね、傷つくよねっていう風にその気持ちっていうのはこんなんじゃないかなっていう風に聞いてみましたね。
で、彼は頷くでもなく本当悲しそうな目をしているんだけども、こっちの言葉を聞いているっていう感じで。
ちょっと離れたところで嫌いだって言ってる子に対しては何かあったのかな?何かが嫌だったんだよねっていう風にその気持ちを組むっていうのをやってみました。
で、そうすると状況としては後でだんだんとわかってきたんですけども、その男の子と女の子で、ここの書いてあるなんていうのかね、杭みたいなとこっていうかな、石碑っていうのかな、なんか、その石碑の間のここからここまでは入っちゃダメよっていう風にやるっていう、なんかアイデアって言うんですかね、そのイメージが出てきたんでしょうね。
で、そういうのを年少さんの男の子と女の子は決めてたわけです。
ゲームみたいにして、ここからここは入っちゃダメっていうことだよねって言ってたところに年長さんの男の子が向こう側からツカツカっと来て知らないまま入ってきちゃった。
入っちゃダメっていうのを年少さんの男の子が多分言ったんでしょうね。
で、そんなことを知らない年長さんの男の子は何そんなことは知らないよみたいな、こんなこと書いてないよとか言って入ってきちゃったので、大っ嫌いってなったんじゃないかなっていうのが推測なんですけど、大体そんなとこだと思います。
しょうがないですね、そういうことも起きますよね。
そん時はその状況すらちょっとよくわかんない子どもたちの話を聞きながらも、でも傷ついたよねっていう風なことがありました。
傷ついた方の男の子は何も言わなかったし、うんともダメとも言わなかったんだけども、少なくとも悲しそうではあったけど怒ってはいなかったですね。
悲しいっていう気持ちを全面的に受け止めていたっていうところがありました。
結構長い時間かかったんです。
20分以上かかったんじゃないかなと思うんですけども、大人が3人見てたんですね。
僕と年少さんの女の子のお母さんとその年長さんの男の子のお母さん3人が見てる中、例えば僕は言わなかったっていうのがあって。
安易に謝らせない、という選択
その何を言わなかったかっていうと、年少さんの男の子、自分の息子に対しては年長の男の子が悲しんでるから謝りなさいっていうことは言わなかったですね。
これ言いたくなるんですけども、僕は本当に何度も言いたくなったんですけども、ごめんねって言いたいよねって言いたかったんですけども、これは言わなかったです。
ここはなぜかというと、そのごめんねっていうところに気持ちがないごめんねってのは僕はすごい嫌なんですよね。
ほんとにごめんねっていう気持ちがあってのごめんねは僕はそれは欲しいし、自主的に出してほしいんですけど、どうしても大人ってごめんねっていう形にこだわるんですね。
形にこだわるとごめんねって言おうよって言いたくなるんですけど、僕はそこはあえてちょっと言いたくないんですね。うん、言わなかったです。
そこは本当にね、そう言った方がいいなとは思うんですけど、やっぱ形じゃないなと思ってて、ごめんねを言えない年少さん、自分の息子ですけど、悪いことしてるっていう感覚は全然ないんですね。
悪いことはしてないんだと思うんですけども、ただ、その傷つけちゃったっていうことをわかってくれたらいいなっていうのが僕の中の思いです。
なので彼に対しては嫌だったことがあったんだよねっていうふうにその気持ちに寄り添っていくところと、その大嫌いって言ったことで相手の男の子はとっても悲しいみたいだよ。それはどう思うっていう風に質問し続けたですね。
そういう質問を何度もすると彼としては責められてるっていう風に捉えて、『お父さんなんか大っ嫌い』って今度は言いましましたね。
うーん、責められてますよね。正直ね、どう思う?彼は傷ついてるよ、そのことに対してどう思う?
やまぴーもちょっと悲しいなって思うんだけどっていう風に伝えてたら、彼は察して謝らせようとしてるんじゃないか、自分を否定してるじゃないかっていうに彼はもうほんとに必死になってそれに抵抗しようとして、お父さんなんて大っ嫌いって言ってましたね。
で、年長さんの男の子に、彼はあなたにも大っ嫌いって言ったけど、やまぴーに対しても大っ嫌いって言うよねって。やまぴーはそれを聞いて悲しいなって思うんだけどねって言って。あの年少さんの男の子は簡単に人のこと大っ嫌いって言うんだよねっていう風にちょっと伝えてみました。
答えもなく寄り添って待つ中にある一つの「答え」
硬着状態っていうんですかね、動かなかったんですけども、
彼の表情っていうのは僕の中ではあくびをし始めたりとか、何かこう生理的なサインがあったんで、これは彼はもう言葉にはしないし、態度にも出さないかもしれないんだけども、1つの区切りを迎えたなっていうところは、僕の中ではプロセスが進行したなっていう風に思っていて、(このことがきっかけで自分としては充分待ってこのプロセスは終えたなという印に感じました)
(もしかするとさらに)なんか悲しい気持ちは持ちつつ、また表現っていうのはこれからもしかしたら出るかもしれんけど、今は出せないっていう状況の中で、ここんところはうちの息子は例えば謝ってごめんねって言えなかったし、そういうとこまでプロセスは行かなかったですけども、傷つけられた方としてももういいよっていう風に言うこともなかったし、ゲームみたいなところを自分が悪いことしちゃったので、そういう風に言われたんだねっていう風な、そういう理解まではいかなかったっていうのはあるんですけども、
何かお互い思い違いって言うんですかね、何か理由があったんだな、相手のことはこういう風なものなのかなっていう推測とちょっとした理解っていうのが起きてるとやっぱ表情とかって変わってくるし、うちの息子も遊び始めたりとかして、傷ついた方の男の子も先ほど言ったそのあくびとか、なんか違う方を向いたりし始めたですね。
ただ、(ここが終わりというサインがない)これでいいって言っても何も言わないのでお大人がどこで区切ったらいいのかっていうのがわかんなくなっちゃったってのはあるんですけども。
じゃあ、もう帰ろうかなっていう風にしたんですよね。それに対して否定もなく肯定もなかったですけども、もう帰ろうかっていう風に大人もなって、彼はなんか走って自分の車の方に行って、バイバイって言うと手振ったんですね。
あ、手振ってるなって大人たちも言ってましたね。
どこがこころを癒していく、成長させていくプロセスで、どこがそのプロセスを終えたとみるのか
その年小さんの保護者さんの方がやまぴーこういう時って難しいですよね。って、これでどうだったんですか、これってどうしたらよかったんですかね。っていう風に聞いてきたんですね。
僕は今さっき言ったことを伝えたんですけども、大人はどうしても謝るとか悪いことしたとかっていう形としての1つの区切り、ごめんなさいを言うとか、なんだろうな、ありがとうっていう言葉だったりするのかな。
何か終わりっていうものがはっきりしたものを欲しがるんですね。
幼稚園児の子どもなんか特になんですけども、形っていうものっていうのはなかなかわからない、理解ができない。
でも、真似することはできるので、もちろんごめんなさいも言えるんですけども、意味なくやってるってことは僕はあんまりそれやらなくていいなと思ってます。
今日のはこれはこれでいいんだと思いますよ。っていう話をしました。
僕はやっぱりその家庭っていうのか、プロセスっていうのが大事かなって思ってますね。
最後の形にこだわると見落とすことがたくさんあるかなって思います。
プロセスっていうのはすごく難しいんですけども、第三者である大人たちがその当事者である子どもたちの心の気持ちのところをどこまで意識したかっていうとこかなっていふうには思います。
気持ちっていうのは結局のところは好きか嫌いか、それから好きっていうのはどこに行くかっていうと興奮に行くと思うんですけど、嫌いっていうのはどこに行くかっていうと不安であったりとか、怒りとかね、悲しみっていうものに繋がっていくとは思うんです。
そこを理解していくことで好きと嫌いに結局振り回されてる感情っていうのを一旦わかっていうのがあった時、(理解っていうのはその第三者が理解してもいいですし、本人が本当は理解していくと1番いいんですけども)その感情に対しての理解があった時、その感情は一旦その仕事を終えるんですよね。
で、終えた時に次に働くのが理性っていうんですかね、全体を見回せる、見渡せる、知性が働いてくると思うんですよね。
そうすると相手がどういう気持ちでいたのかなとか、自分はこういう気持ちでいたけどもそれは勘違いしてたからだなとか、あるいは自分の感情に対しても理解できるということが起きてくると思うんですけども、やっぱ気持ちって1番強いなんて言うんですかね、力を持ってると思うんすよね。
第三者がまずこの気持ちを認めるっていうことが起きた時、その1番力が強いところなんですけど、そこの力を少し緊張だったりとか、興奮だったりとか、逃げたいっていう気持ちからちょっとこう抑えていった時のその後に起きる色んな理解って言うんですかね、そこを促していける理解まで、促していけるまでのツールとして、カウンセリングはあるんじゃないかなとは僕思ってます。
気持ちに寄り添えるか。理屈はおかしくてもいい、というスタンス
カウンセリングっていうのは気持ちっていうのを肯定していくっていうことだと。単純に言うとそう思ってるんですけども。
気持ちを理解しているよっていうメッセージがそばにある時に本人っていうのはまず安心が始まると思うんですよね。
安心があると今度は何が起きてたのかなとか、この先に何があるのかなっていう好奇心とか注目があると思います。
そこから客観的にこうだったのかっていう理解の方まで繋がってくる順番があるかと思ってて、この順番を間違えちゃうと「小言」になっちゃうと僕は思ってます。
小言ってのは、(理屈として)何が起きてるかがまずわからないとダメだっていうのから始まって、あなたが好き嫌い、その好奇心っていうのは持ってることに対して、(気持ちを無視して)そんなことは(どうだって)いいのよ、あなたは納得すればいいのよっていう感じの順番になってしまうっていうのかな。
気持ちを否定、気持ちが今どこにあるのかってのを否定してしまう。
最近、うちの子どもはよくドラえもんを見てるんですけども、のび太のお母さんは小言の名人っていうんですかね、のび太が何やってるかってのは全く見てないんですよね。
のび太の感情ってのは全く理解されてないし無視されている。
こうでなきゃダメだっていう社会的一般的に正解と言われるようなこと、今日彼女が見てた中では草むしりをしなさいって言ったのに、こんなに草がボーボーじゃないのって言って、のび太に怒ってましたね。
のび太はまず自分がしたいことがあるので、お母さんの言葉っていうのはどうやって避けれたらいいのかっていう風にしか聞こえない。
だから、ドラえもんなんとかしてよとか言って、ヘルプをドラえもんにしてましたね。
なんか話が脱線しすぎてるような気がしますが。
僕の中のプロセスとしてはドラえもんの例ではない、逆のって言うんですかね、理屈とか、これが正しいとかからでは始まらないとは思ってます。
その人の気持ちがまず肯定されているていう状況がどれだけできたか。
ここから始まる、あなたはそういう気持ちいるんだよね、こういう感覚でこういう風にいたいと思ったんだよねっていうところ、こっから始まるその感覚が認められて、その感情が認められて、やっとふっと安心ができるようになると思います。
ふっとした安心はそのあくびになったりとか体の身体的なその反応として現れやすいなと僕は思ってますね。
そこから理性の言葉になってくると思うんですよね。
形さえ良ければという考えでは中身がなくなる
幼稚園児に対してその理性を働かせるっていうのは謝りなさいとか形にどうしても大人はなるんですけども、それはもう最後の最後でいいし、なくてもいいし、ぐらいのスタンスかなって思うんですよね。
形にこだわってしまうと、形だけごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんねって言って何度もごめんねを繰り返すことが起きたりとか、ほんとによくあるんですけど。
ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんねって謝ったじゃないのって言って怒り出すとかね。
うん、あります。
形さえよければってなるとそうゆうこと起きますね。
謝ってるからもう許しなさいとか言って怒り出したりとかよくありますね。
いろんなことが子どもを通じてわかってくるなって思いますね。
自分自身振り返ってほんとに感情を否定されて何にもいいことはなかったなっていうことは思いますし、これからもたくさんの人に出会うと思うんですけども、その人の持ってる感情っていうのは誰に対しても肯定できたらいいなっていう風に思います。
昨日起きたことなんですけども、今日の木舎の活動もありましたが話がどんどん長くなっちゃう感じがしますのでこの辺で終わりたいと思います。
長い時間ありがとうございました。お聞きくださいまして感謝しております。
木舎ラジオまた次回よろしくお願いします。この辺で失礼します。
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