森のようちえんと徳島トエックの出会い②

やまぴーが鳥取智頭町の森のようちえん、すぎぼっくりに娘を通わせていた3年間と、徳島のフリースクール、トエックとの出会い。カウンセリングの神様、カールロジャースの話もします

森のようちえんとトエック②文字起こし

森のようちえんと徳島トエックの出会いの話をもう少し続けていきたいなと思うんですけども。

森のようちえんの良さなんですけれどもやっぱり自然の中で本当に遊び尽くすっていう。

毎日だいたいフィールドに出るんで雨の日とか風の日とか本当雪の日とかも出ていくんですけど、その自然の過酷さの中でも随分と子どもたちはたくましく成長していくなーっていう感じがありました。

何でも遊べるようになるって言うんですかね、草で遊んだりとか木で遊んだりとかそこら辺にあるものが道具になって遊びのアイテムになっていく。

うちの子なんかはプリキュアがその時好きだったんで棒を振り回して魔法をかけてるみたいなイメージですけども。

それでもなんだろうな、ファンタジーの世界で生きている子どもたち、自然の中でもそのファンタジーを持ち続けて遊べるもんだなーっていう感じはしましたね。

森のようちえんの良さがそこかな。

あと、たくましいかな。やっぱり子どもがすごくたくましい感じがするかな。

そこはすごく感じましたね。

うん。

僕が行ってたすぎぼっくりっていうところは

1月に1回の共同保育の時間に当番があって、必ず子どもたちを一緒に見守るんですね。

やっぱそこでどうやって子どもと接してる

かっていう学びが本当深かったなと思います。

見守るということっていうのはどういうことかなーっていうのを考えさせられましたし、子どもが何やっても注意せず危ないことを本当に危ないっていうところだと思いますけども。

車が来るとか崖があるとか蛇が出るよとかね、そういうのは声かけてますけど大概のことはどうなるかなという感じで心配だけども見守っているっていう感じでした。

やっぱり森のようちえんってそれぞれカラーがあるんだろうなーっていうのは思いましたね。

僕が行ってたすぎぼっくりでのスタッフはすごくエンターテインナーな人が多くて、歌歌って子どもたちを笑わせる技っていうのはすごくってもう本当にこうよく笑わしてましたね、子どもたちを。

僕もそのネタを結構真似させてもらって子どもたちを喜ばせるのに使ったりしてました。

そのそういうのをエンターテイナーって言いますね。エンターテイナーが悪いわけじゃないんですけどエンターテイナーでいくとその時すごく集中する、とても喜ばれて受けるって言うんですかね。

で、エンターテインなエンターテイナーたちは喜ばれることでまあ言ったら承認されるって言うんですかね、そこでこう嬉しいっていう気持ちが起きると思うんですけど、どうしてもその引っ張りて言うんですか、その頑張ってるんですよね、スタッフがね。

スタッフが頑張らないと子どもがついてこないっていう状況も起きてくる。

だからエンターテイナーをやれる人は常にエンターテイナーでないとっていう気持ちがもしかしたらどこかで起きてくるとすごく苦しくなってくるかなっていうのがエンターテイナー、エンターテインメントの苦しみ欠点なのかなっていう風に思ったりします。

決して悪いわけじゃないんですけどすごい楽しいっていうのはね、それもあったらいいかなと思うんです。

それで子どもをコントロールしようとするとどっか本質からずれてくるのかなーって思ったりしますね。

本質って何かなーって思うと子どもたちが自発的に自立しながら創造性を発揮するっていうところから言えば、どうしても楽しい人が一人いるとそっちに寄っていくことで自分が楽しいことを探さなくて済んじゃうっていうことが起きちゃうかもしれないですね。

で、それの反対エンターテインメントでない場合っていうのがあると思うんですけども、それが強制っていうんですかね。

まあ怒るというのもあるでしょうし、叱るって言うんですかね。脅すっていうかね。あの指導する。まあこうでなきゃダメなんだよっていうことを矯正していきますね。

ほぼほぼ教育の現場ではこういうエンターテイメントよりはどっちかというと鞭って言うんですかね、アメとムチの鞭ですけど、すごく強制しようとしますね。

これもやっぱりその子どもたちが目指すとこの成長の本質からずれてくる。

先ほど言った自発的、自律的に創造性を発揮する、しかもその周りと調和しながらっていうところで言えばあのエンターテイメントの方がまだ調和があるんですけど、強制してる場合、指導している場合っていうのは心の通い方っていうのはすごくなんて言うんですかね、やっぱ薄いのかな。

まあ指導してもらってありがたいとかって後でねあのそれが良かったんですってこともおそらく起きたりするんですけども、その時の自分の気持ちっていうのは無視される。

そういうところで強制には心の調和それから気持ちを分かってもらえるって事の経験がないので相手他の人の気持ちを分かってあげるっていう経験もやっぱり少なくなるかと思うんですよね。

そうすると共感がないグループっていうのはどこかでやっぱりいじめであるとかいざこざっていうトラブルを解消できないようなグループというのが生まれてくるギスギスした社会ですかね。

こういうのが今の社会全体っていうんですかね、多くを覆ってるのかなーって思ったりします。

大人が苦しい世界、社会ですかね。

そういうのも学校教育現場でもしかしたら起きてる。そこから始まってる。

まぁ親もそうですね。親自身もそういうとこから抜け出せないので子どもにそれをいいと思ってそういう社会に出るんだからやっぱり正しいということをやらなきゃいけないし、みんなと合わせなきゃいけないし、強制されることに耐える自分、という育ての場所ってことが起きてくると思うんですよね。

強制されたことを耐える自分がいる時に何が起きるかって自分で自発的にっていう行動が生まれにくくなって、もともと子どもの時には自立自発的に何かを始めようっていうやりたいっていうことがあるんですけども、こうでなきゃいけない、あーでなきゃいけないが多いと止められるんですよね。

止められるとくじけちゃう、自分の勇気っていうんですかね元々持ってる勇気がくじけちゃうと思うんですよね。

今度くじけちゃうとどうなっちゃうかっていうと、一旦くじけてしまってそのままになりがち。

もう一度って時に失敗が許されないにとかこうでなきゃいけないが多いとき、自分から何かを始めようという勇気が出なくなっちゃう。

ここが僕からするとめげちゃったって言うんですけど、めげちゃった感じは続いちゃうと辛いものがあるなーって思います。

うちの子の話に戻っちゃいますけど、森のようちえんではそのめげちゃったっていうかね、うちの子は勇気をね削がれてしまった状態が長く続いちゃったんですよね。

で、ここをどうしていくか、本当ここをどうしていくかっていうことを僕はとっても考えましたし、この子の本質っていうのはそのめげちゃったことがありのまま認められるっていうわけじゃないなと思ったんですよ。

めげちゃってる子、この子勇気がない子、その子そのまま認めるんだっていう風には思えない。

そのよくある『ありのまま』って言った時にその本当のその人っていうところ、自分っていうところで言っても本当の自分で何だろうって自分探しがね、大人になっても続くように本当のこの人の本質なんだろうって時に逃げてる自分、勇気のない自分っていうことが本質なのかって僕にはどうしても思えなかった。

そこは発揮されてる、エネルギーがバーンと爆発してる状態の彼女を見てるもんだから、そのくじけちゃった状態っていうのはやっぱりどこかマイナスの影響っていうんですかね、すごく見てても辛いしその子自身も辛いし、そこから逃れたいと思ってる彼女を感じる。

それはそこに今いる場所ではないところに彼女は来てるんだな。『ありのまま』の自分ではないっていうところに彼女はいるんだなっていうふうに見てあげる人がすごく大切だなと思うんですよね。

『ありのまま』の自分って言った時にそこの本来は持っている自己成長があったり本来持ってる自発的で想像性があってもちろん周りとの調和もありながらっていうところの生き方が望める、そういった本人の元々持っているものを信じてあげるというんですかね、元々本当は持ってたんだって時に再び彼女彼らはその勇気を持ち始めていくプロセスを得ていくのかなと思います。

その時に寄り添ってあげる自分自身にあってもいいし誰か第三者が本当はそうだよねって思いながら見てあげる。

ふんふんって気持ちを聞いてあげる。

今辛いねっていうところを聞いてあげるんだけども戻そうとかそんな気持ちではなく絶対この子は自分から成長していけるっていう風に信じていくことの大切さ。

それをカール・ロジャースは無条件のね、需要ですかね、受け入れるって言ってましたけど。

無条件だってすごい難しいんで本当にね。

殺してやるっていうのを無条件に受けられるかっていったら、いやちょっとっていうのありますけど。

その気持ち合うからと、でもその行動は止めていこうと、気持ちはよくわかるっていうとこの気持ちにどこまでも共感を持って接していく。

そこの難しさはありますが僕の場合そのカウンセリング、徳島のトエックのカウンセリングの考え方に出会って非常に救われたし、彼女自身救われたんだろうなと今の状態を見ていると思います。

本当に良かったなと思ってます。

森のようちえんの良さっていうのと欠点っていうんですかね、自然のままで行ったらいいっていう考え方の中にどこが自然なのかっていうところで、どこがっていう基準って言ったら変ですけども目指すところっていうんですかね、理念って言いますかね、そこが弱いんかな。

物質的にね、その自然な状態ですかね、森があってとか川や水や火や物質的なところでのありのままの自然っていうのはぱっと見た目に分かるような自然で、その子の本質って言ってんですかね、見えないところ心の部分っていうところの自然っていう意味では森のようちえんの場合の自然っていうのは運営している側のスタッフの心がどうなのかっていうところを見ていかないとある意味この外側の自然環境で遊べばいいっていうところだけで見てしまうとよくわかんないんですよね、どういうことが起きてるかが。

まあそういった僕自身も自分の言ってたところ以外のとこでのトラブルで見えたところがあったりしましたし、欠点っていうんですかね。

僕が思うには心理学の特に臨床心理の部分ですかね、どんな心理学でもすごく意味があって効果はあると思うんですけども、僕の場合はカール・ロジャースの持ってる心理学っていうのはすごく影響が大きかったなと思いますし、この間心理士さんと出会ったんですけどもカール・ロジャースってあまりにもその存在が大きすぎるというか日本では取り上げられることが大きくカバーされているというかな、ベースメントみたいになっててすごく幅が広くなっちゃってる。

難しいって昔捉えにくいっていうんですかね、とまで存在が大きいみたいでそこは僕は面白いなと思いましたし、簡単じゃないんだなーっていうふうにも思ってるんですけども、僕なんか専門的に勉強したわけでもなくヨガをベースメントに考えているところでそんなに難しくカール・ロジャースを考えてはいないんですけども、すごく出会えてよかったなと思っていますね。

トエックとの出会いっていうのはそこのところがやっぱり大きいですしトエックの持ってるスタッフの温かさとか優しさとか振る舞いとかを見ていて本当にその体現されてるなっていう感じ。

ロジャースのカウンセリングを体現されてる人たちっていうんですかね。

そこはすごく感動しています。

まあもちろんね、色々トエックの中でもあるってトエックの人たちも言ってますし、バラ色っていうんですかね、本当に天国みたいなところってなわけじゃないと思うんですけども、一つの方向性としてはとっても素敵な方向性を持ったフリースクールだなぁと思っています。

はい。

今日はその辺で終わりたいと思います。

木舎 モークシャ  森のようちえんと自由ながっこう

野山や自然のあそび場・まなび場 気持ちを聴き合うカウンセリング "いま"の感覚とからだとこころを受容するヨーガ これらを土台として、子どもと大人の居場所づくりとしての 森のようちえんとフリースクールを立ち上げようとしています。 現在、岡山県北にて活動中!!

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